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横浜在住。 フルタイムで働いてます。 通勤時間1時間半。 2017年、次女の中学受験終了。
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2025/06/01 (Sun)
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2014/10/09 (Thu)
月末に手術なので、今月が最後の生理。

そう思うと感慨深い…

ということもなく、やっぱり辛いからさっさと終わってくれと思うだけであった。

メンタルがおっさんなのか?

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2014/09/29 (Mon)
昨日、携帯に病院から電話。
いつも診察して貰っている、Dr.Kからでした。
手術の日程の件で…との事。
あぁ、日が決まったんだ。

「無理を承知でお話しますが…」
と随分言いづらそうにされています。

話を伺うと、再来週手術予定だった方が事情でキャンセルになってしまったので、前倒しして貰えないだろうか…との事。(私の予定は10月最終週と聞いていました。)

一瞬で、家の事、仕事の事諸々考えたけれど。
10月半ばに運動会があるし、会社にも入院は10月最終週と伝えてあるし、それまで結構ギリギリ迄仕事が詰まっている為、お断りしました。

…と言う事で10月27日に入院、28日に手術と決定。

あと丁度一ヶ月。

入院準備、しなきゃなぁ。

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2011/05/21 (Sat)
寝る前や、お手入れタイム用の音楽が欲しくてレンタルしてきました。

一曲、以前ヨガの時間に先生が使われてた曲が入っていて、びっくりです。

今夜は、このCDを聴きながらお香でも焚いて、セルフマッサージ&簡単なヨガを布団の上でやろうと思います。



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2011/05/19 (Thu)
飲んで、今日も元気に行ってきます!



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2011/03/31 (Thu)

長い間更新していませんでした。
やはり、地震の日のことを記しておこうと思います。

あの日、わたしはいつもどおり会社(東京都中央区八重洲)で
仕事をしていました。

14:46 最初は小さな揺れでした。
しかし、徐々に大きな揺れになり、間もなくして
今まで味わったことが無いような
激しさになりました。
会社のビルは10階建てで、わたしは1Fで仕事をしています。
ドアにセキュリティシステムが設置されていて
IDカードで開錠するのですが、電気が止まったら閉じ込められてしまう為
入り口付近の人がドアを開け放ちました。

激しい揺れは一向におさまる気配が無く、倒壊が怖かったので
外に出ようとしましたが、物が落ちてくる危険があると、制止され
机の下に避難しました。
本当に長い長い揺れでした。

ようやく揺れがおさまり、会社前のコインパーキングに
全社員が避難。
付近の会社の人々や、通行人の方が続々避難されてきました。
向かいのビルから壁が崩れ落ちていました。
(幸い、落下した場所に人は居なかったようです。)

iPhoneだけ持って出て、すぐに保育園と長女、旦那の携帯に
かけるも、既につながりません。
滋賀に住む姉妹達から心配してメールが届きました。
お台場で火事の情報も入ってきました。
メールは送信できたので、取り急ぎ無事を知らせました。

その間も、また激しい揺れが起こり、会社のビルがしなるように
左右に揺れていて、本当に怖かったです。
倒壊する!!と本気で思いました。

業務の途中ではありましたが、非常事態の為15時半頃には解散となりましたが
全ての電車は止まっていました。
解散前に、会社から備蓄の食糧や水が配られました。
電車が再開する目処は全く無いと判断し、
わたしは歩いて帰宅する事にしました。
長女は、中学校が自宅に程近い場所にあるので、帰宅できるのですが
保育園に通う次女は、何としてでも迎えに行かなければなりません。

昨年11月に、仕事の後走って帰宅した事があり、距離(およそフルマラソン程度)
や道順はわかっていたので、迷うことなく決めました。
その日の朝、皇居を走ってから出勤したので、ランニングシューズを持っていて
本当に助かりました。
ハイヒールでは厳しかったと思います。

この日は、沢山の荷物があったので、走ることはできませんでしたが
終始早歩きで進みました。

わたしよりも横浜に近い場所(東京都大田区)に勤務している旦那も
16時ごろには解散となったので、歩いて保育園に向かうとメールがありました。
しかし、普段全く運動をしていない旦那なので、わたしのほうが早く
着けるんじゃないかと思い、必死で歩き続けました。

銀座を抜け、新橋へ。
道中でも、ビルの脇に瓦礫が落下している場所がありました。
会社から支給されたものなのでしょう、ヘルメットと非常袋を
装備して歩かれている方がいて、なんでうちの会社は
こういうの用意してないんだろう・・・と思いました。

大勢が、歩いて帰宅し始めて道路中に人があふれています。
あちらこちらから、パトカーや救急車、消防車のサイレンが聞こえてきます。
本当に不謹慎ですが、まるで映画のようだ・・・と思いました。

相変わらず電話は繋がらない中、またメールも遅延していて
なかなか送受信出来ない中役に立ったのは
ツイッターでした。
いろいろな情報が入ってきました。

公衆電話が無料で使えるようになっていると知りましたが
長い行列が出来ていたので、取り急ぎ歩を進めることに専念し続けました。
川崎辺りで、公衆電話を使って旦那から電話がかかってきました。
長女が無事であること。
保育園に連絡が取れ、迎えに行けるまで、どんなに遅くなっても預かって下さることを
確認でき安心しました。

その直後、iPhoneの電池が切れました。
充電器を求めて、道中何軒もコンビニに立ち寄りましたが
全く在庫がありませんでした。
コンビニのトイレはどこも大行列でした。
わたしは、途中の消防署でトイレを借りました。
緊急出動も多い中で、気持ちよく貸して頂けました。
「お気をつけて」の言葉に、ちょっとほっとしました。

横浜駅東口に差し掛かると、地下街のポルタや
みなとみらいのパシフィコ横浜、ランドマークタワーが帰宅困難者の
受け入れをしているとアナウンスされていました。

22:30ごろ、ツイッター上で旦那が次女の引き取りを完了したことを知りました。
(メールも送ってくれていたようですが、一切届いていませんでした。)
後で聞きましたが、残っていた子供はうちの娘を含め2人だけだったそうです。
先生方にもご家族がいらして心配な状況のはずなのに
「わたしたちは、これが仕事ですから」と嫌なな顔もせず
きちんと責任を持って預かって下さっていたことを知り、感謝の気持ちでいっぱいです。

第一京浜という大きな道路をずっと下って歩いていたのですが
車も大渋滞で、横浜を過ぎ、ようやく少しずつ動き始めている感じでした。

自宅近くのコンビニで、食べ物を買って帰ろうとしたら
この時点で既に、パンやおにぎり、カップ麺などの棚はすっからかん。
結局わたしは、飲まず食わずで歩き続け25:00ごろ帰宅しました。
家族は全員眠っていました。
その寝顔を見て初めて、心から安心できました。
 

あれから、計画停電が始まり、街ではいろいろな食材や生活用品が売り切れ 毎朝、毎夕の電車は激混み。 しかし、今までが便利過ぎたのだと思います。 東北の方に負担を強いて、関東に電力が供給されている事を 今回初めて知りました。 無知は罪だと思います。知ろうともしていなかった自分が恥ずかしいです。 被災地の方に頑張れ!なんて、軽々しく言えません。 今は、自分に出来る事を、毎日全うしたいです。 とりとめのない文章になりましたが、読んで頂いてありがとうございました。

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